☆その1☆

「神は創造主、人は被造物(注:造られた存在)」

 

 旧約聖書の中で、最も大きなテーマの一つは、最初の書である創世記1章1節に出てくる言葉によって示されています。

 

 はじめに神は天と地を創造された」(創世記1:1)

 

 神からの霊感を受けて、モーセが書いた聖書の最初の区分である「律法」あるいは、「モーセの律法」(創世記~申命記まで)の最初の言葉は、この世界が偉大な創造主である神によって造られたという壮大な宣言です。

 この宣言こそ、かつて、青年時代の新島襄の心をとらえたものでした。

 そして、この宣言こそ、「人はどこから来たのか」という人生の三大疑問の一つに対する答えであり、チャールズ・ダーウィンによって提唱され、その後の哲学、科学、思想等に大きな影響(その多くは否定的・破壊的な影響)を与えた生物進化論とは完全な対極にあるものです。

 実際、創世記に続く、旧約聖書の数多くの書簡が、「神による世界および人間の創造」を力強く証言しています。

 

 旧約聖書の2番目の書、「出エジプト記」第20章には、有名な十戒が登場します。

 この十戒の本質を、イエス・キリストは、「神と人への愛」と要約されました(新約聖書マタイによる福音書22章34-40節参照)。

 十戒の第1条(第1戒)から、第4条までは、神に対する人間の愛と義務が記されています。第5条から10条までは、隣人に対する愛と義務が示されています。

 

 全世界のすぐれた憲法の根本精神とも言える、この十戒の中心は、第4条です。 その理由は、十戒の中で、第4条だけが、この荘厳な戒めを与えたお方の固有名詞(「主」-原語でヤハウェ)と、称号(創造主)を記しているからです。

 出エジプト記20章11節には、「主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれた」(創世記1:1-2:4も参照)と記し、十戒を与えたのは、世界の創造主であることが高らかに宣言されています。

 さらに同じ出エジプト記の31章17節には、「主が六日のあいだに天地を造り、七日目に休み、かついこわれた」と記されていて、人間と地球が、長い進化の過程を経て現われたのでなく、偉大な創造主であられる神によって、文字通りの6日間で

創造されたことを証言しています。

 

 「モーセの律法」(あるいは「モーセの5章」)の締めくくりである申命記32章18節は、モーセが死の直前に語ったことばの一部ですが、そこに、モーセは、「あなた(注:古代イスラエル)は自分を生んだ岩を軽んじ、自分を造った神を忘れた」と述べています。

 

 人類の最初の両親であるアダムとエバが神にそむき、罪を犯し、真の神を見失って行った結果、自分で神を造って拝んだり、周辺諸国の神々を拝んだりするようになります。これを、偶像礼拝と言います。ちなみに、偶像のことを、英語で「idol(アイドル)」と言いますが、人間は、金銭や人気歌手や俳優などの人間も偶像(アイドル)にしているわけです。

 こうした偶像礼拝の風潮は、創造主なる真の神を礼拝すべき古代の神の民イスラエルにも、入り込んできました。

 

 モーセの後継者ヨシュアは、告別説教の中で、「あなたがたのうちにある、異なる神々(注:偶像)を除き去り、イスラエルの神、主に心を傾けなさい」と訴えています(ヨシュア記24:23)。

 また大預言者エリヤは、背信の王アハブに扇動されたイスラエルの人々が、太陽神バアルを礼拝するという国家的堕落に陥ったことに言及し、「あなたがたはいつまで二つのものの間に迷っているのですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい」と、決断を迫っています(列王記上18:21)。

 バビロン捕囚から帰還し、祖国の再建の途上にあった改革者ネヘミヤとエズラも、神への祈りの中で、「あなた(注:神)は天と諸天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものを造り」と述べて、バビロン捕囚の原因が、人々の偶像礼拝にあったことを示して、創造主なる神に立ち返ることこそが繁栄の秘訣であると語っています(ネヘミヤ記9:6)。

 

 文学的に見ても高い価値を持つと言われているヨブ記の中で、義人ヨブは「彼(注:神)は北の天を空間に張り、地を何もない所に掛けられる」と述べましたが、今から3500年以上も前に、ヨブは、霊感によって万有引力の法則の知識を持っていたと思われます(ヨブ記26:7)。

 イスラエルの王であり、詩人でもあったダビデは、「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす」(詩篇19:1)と歌い、自然界を創造された神をほめたたえました。ちなみに詩篇には、創造の神についての詩が多く収められています。

 

 亡国の預言者エレミヤは、人間が作った神(偶像)は、「きゅうり畑のかかしのようで、ものをいう事ができない。歩くこともできないから、人に運んでもらわなければならない。それを恐れるに及ばない。それは災をくだることができず、また幸いをくだす力もない」と断じ、続けて、「天地を造らなかった神々は地の上、天の下から滅び去る」と言いました(エレミヤ10:5-12参照)。

 

 希望の預言者イザヤは、「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ」と述べて、人々の思いを高きにいます創造主なる神に向けようと努めました(イザヤ40:25)。

 つづいて語られたイザヤの言葉は、人生の非情理に悩み苦しむ、現代人への慰めのメッセージでもあります。

「ヤコブ(注:自分の名前を入れて読んでみて下さい)よ、何ゆえあなたは、『わが道(注:人生の歩み)は主に隠れている』と言うか。イスラエルよ(注:あなたの名前)、何ゆえあなたは、『わが訴えはわが神に顧みられない』と言うか。

あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。

主はとこしえ(永遠)の神、地の果ての創造者であって、

弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望む(注:信じる)者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」(イザヤ40:27-31)。

 

 このように、ざっと見ただけでも、旧約聖書を通して、神は、人間は神に創造された存在であり、そこにこそ、人間の尊厳があるのだ、と訴えておられるのです。

 

 そして、実は、このテーマは、新約聖書にも引き継がれ、世界の最終時代に生きる私たちへのメッセージとして、神は力強く語りかけておられます。

 「神をおそれ(畏れ)、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」(黙示録14:6、7参照)。

 

 最後に、ひと言付け加えますと、神の創造をいつも覚え、創造主なる神を決して忘れないために、神が与えて下さったのが、天地創造の記念日である安息日(週の7日目=現代の暦では、土曜日に当たる)です。 神が礼拝の日として、聖(きよ)く守るように命じておられるのは、中世の教会(ローマ法王教)によって定められた日曜日ではなく、天地創造の初め(人間がまだ罪を犯す前)に、神との交わりの日として人に与えられた安息日なのです。

 この問題については、後日また、取り上げる機会があろうかと思いますので、お楽しみに!!